開催日時: 2025年12月14日
テキスト: 『エチカ』第2部定理7、第3部定理2と備考、第5部定理1、定理20と備考
参加人数: 8名
講師: 堀江 剛さん(カフェフィロ、大阪大学)
会の進行: テキスト該当箇所のレジュメを参考にした講師による解説のあと質疑応答及び対話に進んだ。
1.解説
デカルトが精神による身体の制御を主張したのに対し、スピノザは精神が身体の運動を決定することはできないと主張した。
ゾウリムシも石も人間と同様に観念の秩序付けと連結という手続きを経て精神と身体を同時に動かしている。
「私が思う」時、「思う」という活動を「私」という身体に帰属させているとする考え方を否定し、活動の帰属先を固定させない、活動の帰属先は自然であるとする。
「自然が私という様態において思考する」という立場をとる。
2.質疑応答及び対話
Q1 スピノザの考え方だと人間には自由がないのではないか?決定論的な世界での人間の幸福はどこにあるのか?
因果的に決定されている自然=世界のごく一部しか人間は知ることができない。
我々は決定論的な世界にいるにもかかわらず、自然の中にいることを認識できないから不自由だという見方。
Q2 人間は世界のごく一部しかわからないというが、努力して進歩すれば知る範囲が広がっていくのではないか?
スピノザの生きた時代には「進歩」という概念はなかった。
スピノザは自分の仕事が世の中の役に立つとは考えていたが、人間の知性は神(自然)の無限な知性のごく一部しかカバーできない、進歩があろうがなかろうが、その一部から抜け出すことはできないと考えていた。
Q3 世の中には豊かで幸せな人もいるし、貧しく不幸な人もいるが?
貧富ではなく、自分が自然の一部だと受け入れられれば幸せだという考え方。
スピノザはキリスト教に対して批判的ではあるが、神を信じることで幸せになるというルートは認めている。
Q4 足るを知るということか?
その通り。つつましい幸福が推奨される。
Q4 体制維持派のように見えるが?
確かに保守的に見える。
当時のオランダはキリスト教的価値観の維持派と科学的合理主義推進派に二分されていたが、スピノザはどちらも認めていた。
スピノザは戦う哲学者というより不可解で隠遁者的なイメージが強い。
考える自由は国が保障すべきだとの考えのもと、政教分離を提唱していた。
これは当時ではかなりラディカルな国家観だった。
Q5 秩序を理解することが幸福への道しるべというが、秩序とは何か?
自然のあるがままの感情はよいのか悪いのか?
自分が生きやすい、楽しいという欲望に従うことがよいという考え。
Q6 人々の欲望がぶつかったときはどうなるのか?
その場合、共同の欲望を優先する。警察による共同体の治安維持が好例。
共同の欲望が禁止する以外は自由に自分の欲望に従うべき。
Q7 AIと人間は同じというが、人には欲望があるが、AIにはないのではないか?
AIにも欲望はある。欲望=自己保存の努力=コナトゥスはすべてのものが有している。
外部の力が加えられない限り、すべてのものに働いている力。慣性の法則にしたがう力などが想定される。
Q8 決定論的な世界では未来を変える力は否定されるのか?
未来を変えるという考え自体がおこがましい。
Q9 出来事の主体が自然だとすれば、例えば殺人を犯した私は罪を自然のせいにできるのか?
殺人犯の私は共同体が許さない。罪人として法によって罰せられる。
Q10 法で罰せられるから殺人はダメだということか。人の倫理としてダメという視点はないのか?
「人として」という視点はない。共同体の利益になるかどうかで判断される。
Q11 共同体が無政府状態だったらどうするのか?
どのような状態でもそこには必ず共同体的なものができて、制御装置が発生する。
Q12 自然=神=世界の中での人のふるまいのうちにあるエートス的なものを考えてみたとき、功利主義のように見えるが?
Q13 精神の定義について。観念の秩序と連結の仕組みがわからない。石と人間が同じ精神を持つという意味がわからない。
石にも人間にも何らかの観念の活動があるはずだという見方。
人間は人間の持っている石の観念と石自体の観念の区別がつかない。
例えば、an idea of stoneという表現はどちらにも受け取れる。
人間と石とは区別できないが、自然のそれぞれの様態として区別される。
例えば、音は空気の振動でしかないが、人間の耳には不快な騒音であったり、美しい音楽であったりと聞こえ方や感じ方が違ってくる。
Q14 スピノザは教育とかしつけについてどういう見解を持っていたのか?
正しい生活は合理的に判断して互いの利益を尊重し合う関係だとし、共同体の利益を大切にした。
子供や女性に対する視線は厳しく、共同体の利益に資することはないという見方だった。