本と対話と哲学と

テツドク!@東京のアーカイブ

國分功一郎著『中動態の世界ー意志と責任の考古学ー』読書会 第2回

開催日時:2026年9月23日

テキスト:『中動態の世界ー意志と責任の考古学ー』新潮文庫

      (第4、5、6章)

参加人数: 14名

会の進行:事前に用意したレジュメをもとに紹介者がテキストを解説、その後紹介者が設定した問いを中心に参加者同士の対話が進行した。

 

 

1. 解説

テキストの該当箇所のまとめを振り返り、理解を進めた。

最後に解説者が対話の素材になりそうなテーマを紹介し、考えるきっかけとして提示した。

 

 

2. 解説者の感想

 

レジュメの解説の後、解説者が特に注目し、問題意識を持った点を挙げた。

 

 「意識されない思考」が「意識される思考」に与える影響について考えたい。

 

 自分の内面や無意識的な領域が、顕在的な思考や決断にどのように作用するのか

という点が気になった。

 

 また、アーレントが「絶対的な始まり」を強調しすぎる点について、それが日本

人にとって馴染みの薄いキリスト教的神学に依拠しているのではないか、という疑

問や違和感が感じられる。

 

3. 参加者の議論

 

解説者の提起やレジュメの内容をめぐって、参加者間で多角的な意見交換が展開された。(いくつかのテーマに分類)

 

① AIと行為・意味付け

 

・ AIのオペレーションと人間の意味付け

 AIが動く仕組み(オペレーション)と、人間がそれに後付けする「意味」の空間

はどのように結びついているのか。

 

 AIはルールに従って処理を行っているだけであり、行為をしているのは人間(意

味付けをしている側)であり、AI自身は関与していないのではないか。

 

② 「絶対的な始まり」はあるのか?(人間の決断と変化)

 

・アーレントの立場

ハンナ・アーレントは、選択の自由を意味する「リベルム・アルビトリウム(LA)」と「意志」を区別してとらえるべきだと主張している。

 

哲学史ではLAと意志が混同されて批判されてきたが、アーレントはこれを批判し、意志と過去が切断された「絶対的な始まり」として捉え直そうとしている。 

 

『精神の生活』には神学的な記述が多く、アウグスティヌスの「主意主義」が足場

になっている。

 

また別著では意志は「理性と欲望の調停者」であり、精神を統制する働きを持つと

される。

 

・ 人生の転換点や直感

 人生には、過去の延長線上ではなく、何ものかによってガラリと状況や考えが変

わる瞬間がある。

(例:ICC所長になった経緯、通りすがりの駅で「ここに住む」と直感した経

験)。

 

 障害者が自分の体を動かそうとする意志や、『夜と霧』(フランクル)に見る極限

状態での生きる意志は、「絶対的な始まりの意志」と言えるのではないか。

 

 ・過去や外部環境との関係

 一方で、行動や考えは関係性や文化資本、外界からの情報によるプログラムの書

き換えによって生じており、純粋な「絶対的始まり」はないという見方もある。

 

 小さなこと(スープの中のベーコンの欠片)から希望が生まれ、偶然の経験(震災ボランティア)がそのあとの行動を左右するように、外界からの刺さる経験によって自分が変わる側面もある。

 

③ 意志・受動・能動の枠組み

 

 ・中動態や受動態からの視点

 言語で「能動と受動」に分断された世界を反省し、受動態や中動態のパースペク

ティブから人間の意志や行動を見直す視点が提示された。

 

 自分の意志で生じたわけではないが、内に生じる考えや感覚を「絶対的な始まり」

と呼ぶか「過去からの帰結」と呼ぶかは、どのような枠組みで捉えるかによる。

 

④ 権力、暴力、非自発的同意

 

 ・自由や同意のグラデーション

 日常生活における「非自発的同意」や、趣味・スポーツなど「人からやらされて

いる感覚が少ない状態」において、純粋な自発的行為はどれほどあるのかという問

いが残った。

 

 パノプティコンのようなシステム的な制御を行う「権力」と、恐怖から操る「暴

力」は区別して考えるべきであり、権力と暴力の関係性も重要な論点となるのでは

ないか。

 

國分功一郎著 『中動態の世界ー意志と責任の考古学ー』読書会 第1回

開催日時: 2026年7月12日 10時~12時

テキスト: 『中動態の世界ー意志と責任の考古学ー』新潮文庫

      (第1、2、3章)

参加人数: 12名

会の進行: 事前に用意したレジュメをもとに紹介者がテキストを解説、その後該当箇所の質疑応答、次に紹介者が設定した問いを軸に参加者同士の対話が進行した。

 

1.解説

本書のメインテーマ、意志と責任の在り方を紹介者の実体験を交えながら解説した後、第1章「能動と受動をめぐる諸問題」、第2章「中動態という古名」、第3章「中動態の意味論」それぞれを概観し、中動態の使用法についての複雑な歴史的経緯を整理した。

 

2.対話

トピック1 能動態/受動態及び能動態/中動態のパースペクティブの違いについて

・アンダーセンの解釈では能動態が遂行、受動態が経験を指すとされるが、遂行と経験に分けられる行為と分けられない行為があるのではないか。

 

・例えば、「わたしは打つ(tupo)」という遂行を表す動詞が「わたしが打たれる」と受動態になると「心を打たれる」という経験を強調する意味に変わる。

 

・「心臓が動く」という表現について、心臓は生物の一部だが、生物そのものではなく、意志も持たない。無生物主語の構文はどのカテゴリーに当たるのか。

 

・心臓は神が動かしているということもできるのではないか。

 

・「支配する」は(主語が)明確な行為なので、能動態そのものに見えるが、支配される=服従すると解釈すれば中動態にも見える。ギリシア語文法ではいかがなものか。→後日の検討課題で

 

トピック2 主語と主体の違いについて

・「ある」「生きる」は能動態に区分されているが、そこでは主体が蔑ろにされていると本文中の指摘(p124)がある。これは、どういうことか?

 

・端的に言うと能動態は主体の出発点だが、主語と主体を区別して考えることもできる。

 

・私は他の人とのかかわりの中で生かされているので、文法上、主語の出発点は私ではあっても、その主体は私ではない場合もある。

 

・「ある」とか「生きる」というとき、そもそも他者を前提にしているので、能動態扱いなのではないか。

 

・主語と主体を分けて考える。主語は文法上の概念であって、感覚的な私とは違う。デカルトの(われ思うゆえにわれありの)コギトにも主語はない。文法上、主語は必要だとは思うが。

 

・他者のあり方によって行動が変わるのか、そのきっかけは自分の内側にあるのではないか。

 

トピック3 中動態と意志のあり方について

・バンヴェニストの中動態の定義では、主語が過程の内側にあるとするが、これは私が世界を客観的にみるのではなく、世界によって触発されて私が現れると解釈できるのではないか。

そのとき意志はどこにあるのか。

 

・例えば、みんなで食事に行って「A定食で」と誰かが言った後、「おれも」と言うとき、私は自分の意志でそれを選択したわけではない。この場合、文としては私が主語になるが、意志の宿った主体ではない。

 

・文法上は因果関係がわかればいいので、意志、意欲等は特に問題にしなくてもいいのではないか。

 

・認知行動療法は個人の意志による力ではなくて、周囲の環境を整備することで本人の認知パターンを変え、前向きな行動を引き出すように設計されており、いろんな分野で成果を上げている。

 

・行動経済学の知見では、個人が自己決定にかかわらなくてもよい方向に影響を与えて、全体を良い方向に促すことが可能。

 

・例えば、臓器提供者が少なくて支障をきたしている現状を変えるために、今までは自発的に手を上げないと提供者にならなかったが、現在は積極的に拒否しない限り、潜在的な提供者として扱われることになっている。

臓器提供したいという意志があったとしても、何らかの原因で踏み切れない人がいるだろうという解釈らしい。

 

・ちょっと怖いような感じがする。

 

・この本では、意志は否定されているのではなく、行為の捉え方を変えようと言っている。意志が常に行為に伴っていると考えると、責任についておかしなことが起こるので、能動態/中動態という仕組みのなかで考え直そうと言うことだと思う。

 

                                 以上

 

 

 

 

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                               

 

上野千鶴子著『アンチ・アンチエイジングの思想』読書会 第3回

開催日時: 2026年5月10日 10時~12時

テキスト: 『アンチ・アンチエイジングの思想』みすず書房

      (第6、9、10、13、14、15章、あとがき)

参加人数: 9名

会の進行: 事前に用意したレジュメをもとに紹介者がテキストを解説、その後参加者同士で対話が進行した。

 

1.解説

第1回、第2回で取り上げられた話題をざっと見返した後、今回取り上げる各章の解説、並びに対話の素材となりそうなポイントを提起した。

ポイント① 高齢化による心身の衰えを補う公的サービスを自由に受けられる条件とは

ポイント② 「終活」など事前の意思表示は本人の意思として扱えるのか

ポイント③ 役に立つ、役に立たないという基準で人を判断してしまうのはなぜか

2.対話

トピック1.認知症者への対応の実際について

・認知症者への対応に関しては、実際に誰がケアするのかという視点が必要。

・家族がケアする場合、家族の時間や精神的な負担を犠牲にせざるを得ない場合がある。

・どうしたらケアされる人ファーストとケアする人の都合のバランスがとれるのか。

・みんなで話し合える共同体感覚が必要なのでは。

・認知症者が夕暮れ時になると落ち着かなくなり、徘徊したがる夕暮れ症候群は柳田國男がいう「神隠し」の起こる時間帯と重なり合う。世界があいまいになり不安感が増大する時間、これは認知症者に独特ではなく人間が抱える根源的な問題をはらんでいるのではないか。

・正常と異常は地続きになっており、問題を問い直すことでそこが見えてくるかもしれない。

 

トピック2.認知症ケアの難しさ

・本書では認知症者でも最後まで「自分らしく」「あるがままで」暮らせるように(社会も個人も)あるべきだという立場だが、実際はどうなのか。

・認知症者は論理的な説明を理解する力はないが、気分はある。マニュアル通りの対応では気分を良くすることはできない。

・ルールではなく気分を良くする方向で考えたい。

・イギリスの医療現場では医師と医療従事者に加えて当事者の尊厳を守るセラピストも活躍している。

・認知症者は論理的な説明を理解する力はなくても気分はあるが、その気分が実際の意思決定に反映されているかは疑わしい。

・自覚なしに身体が固まってしまっていることがある。手で触れて初めてそれに気が付くことがある。肩をさすると気分がよくなってるのがわかる。

・同じ目線で立つ。対等の気持ちが大切。自分のペースだけにとらわれずに、相手のペースを気にしながら対応する。※ユマニチュード

・認知症者の(大人に向かって)「何年生?」という問いに対してとっさに「3年生」と答えた。とっさのことでとりあえず答えたのは良かったが、「何年生に見える?」と問い直すこともできるたのかも。

・認知症者は健常者が普段見ている世界とは違う世界を見ていることもあるが、共通する世界もある。

 

トピック3.自立や自由について

・ケア=コストの負担というのではなく、ひろく社会のために役に立ちたいという動機をもつ人もいる。

・他者に迷惑をかけない限り、認知症者個人の自由に制限をかけることは避けたい。

・自由=理性的な人間という考えは近代哲学の前提になっているが、理性的な判断ができない人にも自由があってしかるべきではないか。

・意志とは無関係に身体が動く人もいる。びっくりするようなことをいう人もいる。健常者/異常者を安易に分離して、その境を前提に対応するには限界がある。別種の人間ではないという視点が必要。

・電車で奇声を上げる人をたまに見かけるが、危害を加える様子はないのに怖がられる。社会の寛容性が低下しているのではないか。(昔はもっと変な人がたくさんいた)

奇声を上げる人もいろんな事情があってそうなっている。

・一方で、すべてがOKというわけにもいかない。ダメなものはダメという必要がある。危険なこととそうでないことを切り分けて対応すべき。

 

トピック4.その他

・寝たきりになった姿を見たら、ああはなりたくないというのが正直なところ。アンチエイジングは頑張る意味があるが、最後は社会のフォローが必要。

・最近は子供に対するサービスは手厚くなっているが、高齢者に対するサービスはそこまでよくない。

・日々老いていくことはあまり自覚していなかった。今年は今年の来年は来年のアンチエイジングがある。その都度変わる。

 

3.『アンチ・アンチエイジングの思想』読書会を終えて

アンチエイジングの思想の基盤となる「元気で若々しくいたい」という気持ちは自然で特に否定されるものではないが、それが弱弱しく愚鈍で人に迷惑をかける人にはなりたくないという思いに転化し、知らず知らずのうちに老いの存在そのものに制約をかける社会を正当化することにつながっていないか。

 

このような問題設定は時宜にかなっていて、ホットなテーマではあったが、社会制度問題や施設の在り方など現実的な問題が前面に出てしまい、哲学的・思想的な方向になかなか入っていけなかった面もあったように思う。

 

次回は國分功一郎『中動態の世界』を取り上げます。

がっちり哲学系統の本になりますが、気軽にご参加いただければと思います。

 

上野千鶴子著『アンチ・アンチエイジングの思想』読書会 第2回

開催日時: 2026年3月8日 10時~12時

テキスト: 『アンチ・アンチエイジングの思想』みすず書房 第5、7、8、11章

参加人数: 14名

会の進行: 事前に用意したレジュメをもとに紹介者がテキストを解説、その後参加者同士で対話が進行した。

 

1.解説

第1回の読書会では「なぜ老いは嫌われるのか?」という問いに対し、迷惑をかけたくない、社会のシステムが高齢者の力を奪っているのではないか、老いは負担ではあるが当たり前のことではないか、といった意見が出された。

本日取り上げる章では、向老期のアイデンティティの危機、老いと性、加齢恐怖などの実例を紹介しつつ、アンチエイジングに抗う思想を深堀していく。

 

2.対話

対話の前に参加者にアンチエイジングに賛成するかどうかを尋ねたところ、8名が賛成(うち1名は消極的賛成)との結果を得た。

 

トピック1 「弱さ」を主張することについて

・(老いをそのまま受容しよう、弱さを受け入れようというアンチ・アンチエイジングの思想を受け)「弱さ」は悪くはないし、それ自体には賛成だが、上野氏は「弱さ」を逆主張しようとしていて、そこに違和感を感じる。

「弱さ」を強く主張しすぎているのではないか。

 

・上野氏からすれば、それくらい言わないとわかってもらえないという考えがあるのでは。

 

・受け止め方に男性と女性の違いがあるのではないか。ふつうに暮らしていると男性が上で女性は下の立場だから、女性の側からは強く主張しないとわかってもらえない。

男性の側が下に降りてもらわないと通じないのではないかと思う。

 

・強さと弱さを男性/女性に割り振って完全に重ねてしまうのはいかがなものかと思う。

 

・上野氏はフェミニズムの旗手なので、その文脈からすると強く主張するのはうなづける。しかし、強く主張しすぎることによって健全な言論空間が築けなくなっている面もあるのではないか。

 

・「弱くて何が悪い」という主張は、(災害発生後に)被災した人の立場が強くなりすぎて、それほどでもない立場の人が弱くなってしまう(歪な)構造と同じに見える。

 

・「弱さ」とは目標に向かう過程でなんらかの制約を加えるものだと思う。

例えば、相手をわかろうとしないで暴力をふるうのは「弱さ」の現れと言える。

 

トピック2 アンチエイジングをめぐる個人と社会の関係

・老いや死は個人の問題か社会の問題かという論点はある。私はアンチエイジングの問題は個人の問題だと思う。

 

・確かに個人の問題だが、社会がそれを認められるかどうかという問題もある。

 

・(老いをそのまま認める立場の)グレーヘアーを支持するグループがある。理解できるが、自分は髪を染めて若く見られたいという気持ちがある。

これは社会的な要請ではなくて、染めないでいるのは単に自分が不快だから。

 

・アンチエイジングをどうしたら手放せるのか。他者を受け入れ続けていれば、自分を肯定できるのではないか。

 

・アンチエイジングはそもそも幻想なのではないか?最終的には認知症になったり、身体が動かなくなったりする。結局先延ばしにすぎず、社会や介護制度の問題になる。

 

・集団間の競争社会の現実で、アンチ・アンチエイジズムという理想論は成立するのか?

 

・個人が老いを受け入れたとして、社会が放っておいてくれない面がある。

 

・個人だけで頑張ろうとせずに、他者に弱さをさらけ出してみてはどうか。

 

・個人の努力でできるアンチエイジングと個人ではどうしようもない病、老化のエイジングがある。病気などの避けられないエイジングに対して社会がどう価値を与えるかが問題。

 

トピック3 アンチエイジングに自分はどう対応するのか

・誰から見た老いなのか、自分と自分、自分と他者、、、自分で受容できても外部と接触した時、そうでなかったりする。望ましさの基準が自分と他者で違う。

 

・私は子供のころから老人になりたかった。早く頑張らなくてもいい場所に行きたいと思っていた。老いは楽しめる。競争社会から離脱することで解放される面がある。

 

・人はそれぞれの環境で生きている。いろんな場合があって一概に言えない。今を大事に生きる考え方でいいのでは。

 

・正しい回答はない。心理的な面ではギャップを楽しむでいいのではないか。他者から自分が思うより老いていると見られたら、そういう見方もあるのかとギャップを楽しめばよい。

身体が利かなくなるギャップは突き詰めれば社会的な問題になってしまうが。

 

・生きるのに遠慮はいらないと思う。社会で認められないかとか老いて見られないかとかネガティブになることはない。

自分一人ではアンチエイジングをしないが、まわりを安心させるためにメイクする、というのはある。

 

・自分が自分をコントロールできているうちは元気な自分を見せていくことも必要。

 

・外国人は太っていてもビキニ水着を着たりするが、日本人はできない。日本社会はエイジングに敏感なのかもしれない。

 

・親の老いについて。食べてくれない親に食べてほしいと思う子の関係はアンチ・エイジングの問題のどこに位置づけるか。

 

 

 

 

上野千鶴子著『アンチ・アンチエイジングの思想』読書会 第1回

開催日時: 2026年1月11日 10:00~12:00

テキスト: 『アンチ・アンチエイジングの思想』みすず書房 第1章~第4章

参加人数: 13名

会の進行: 事前に用意したレジュメをもとに紹介者がテキストを解説、その後、参加者同士で対話が進行した。

 

1.解説

本書では老いという現象を文化、歴史、文明の近代化等の観点から多角的に考察し、老いを受け入れるにあたり発生する主観的・客観的な問題点を検討している。

今回取り上げる章ではテキストを参照しつつ、テーマのひとつである「老いはなぜ嫌われるのか?」という問いをひとまず軸にして対話を開始したい。

なお、本書はボーヴォワールの『老い』を読む、という副題が付されている通りに同書を水先案内人として議論が展開される体裁をとっている。

 

2.対話

トピック1.  ジェネレーションギャップ

・年長者や若年層の人と価値観が合わないとき、若い人に合わせて自分の価値観を変えることが正しいのか悩むことがある。

・時代に合わせて価値観をアップデートすることが社会的に要請されているように見えるが、それでよいのか。

 

トピック2.  若者から見た老い

・若い人が老いに興味を持つこと自体感心する。昔の若者は老いをそこまで考えなかったが、今の若い人は老後リスクをよく考えている。

 

・富を持っていないと老人は解放されないという悲観的な見方があるのではないか。

・老いていく親を見ていても、自分が老いることがイヤだとは思わないが、現実的には困ったことになるなとは思う。

 

トピック3.  死にたいという老人

・早く死にたい、若い人に迷惑をかけたくない、という高齢者が多い。

 

・迷惑だと思わせる社会が悪い、というのが上野千鶴子の立場だが、わたしはそうは思わない。コストを若い人に担わせるのがしのびない。個人としては社会で保護してもらうのは結構なことだが、制度として維持可能だとは思えない。

 

・迷惑をかけない社会が可能なのか疑わしい。具体的には子供に迷惑をかけないで人生をまっとうできるとは思えない。

 

・迷惑をかける=役割がないから退場しましょうは違うのではないか。それでも安心して生きられる世の中であってほしい。

 

・役に立たないから死ぬ、は優生思想。

 

・生きているのがつらい=死んだ方がよいというのは悲しい。

・心理的・身体的なつらさがなく生きたい。身体的なつらさが減ると心理的なつらさも減るのではないか。

 

トピック4.老いをネガティブにとらえる社会の病

・老人は本当に嫌われているのか。若い人よりがつがつしていないので、好かれる面もあるのでは。

 

・老いにより個人の能力が低下するが、そもそも個人の中に価値を見出す風潮は近代化の副作用ではないか。

 

・高齢者にはそのままで受け入れられるよろこびがある。

・程度の差はあっても、80代でも新しいことができるよろこびを感じることはある。

・高齢者に危機があるように小学生にも危機がある。どんな年代にも危機がある。

 

・現在の施設では高齢者が力を発揮できないシステムになっている。

・料理するのが好きな人が料理できなくなったりするケースもある。

・むしろ、高齢者の力を見えなくする方向に社会が動いているのではないか。

 

・例えば、90歳の人がするちょっとした仕事に対して時給3000円くらい支給するとか。

・ベストセラーになった赤瀬川原平の『老人力』を参照にして、「老人力がついてきた、えらいなー」と感心するとか、、、近くにいる人の小さな愛があれば幸せでは。

 

・現在の社会が見ているものと実際に個人が見ているものは違うのではないか。

・社会の変化スピードが速すぎる、置いてけぼりを食っている恐怖感はある。

・若い方がよくて、老いている方が悪い、というのは自然な感情なのか。それに対して罪悪感をもつのは理不尽ではないか。

 

・若いころは20代、30代になったときの理想的なモデルをイメージできるが、こういう老人になりたいというモデルが見えない。

・実際には自分が老いていかないとわからない部分があるので、難しいとは思う。

 

トピック5.  上野千鶴子の立ち位置

・上野千鶴子は著書『おひとりさまの老後』で老後は個人的なネットワークと介護保険制度を使って生きていくと言っている。

・いろいろ勉強して自分の老後を作ってい行く時代なので、身近に良い先生がいる環境があればよい。

 

・上野さんは社会学者なので、本書では少し距離を置いて老いを分析している。

・「老いとは他者になる経験」というフレーズがでてくるが、自分の中に自分でつかめないものが出てくる経験を言っているのだろう。

 

                                     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2025年12月14日 スピノザ『エチカ』読書会

開催日時: 2025年12月14日

テキスト: 『エチカ』第2部定理7、第3部定理2と備考、第5部定理1、定理20と備考

参加人数: 8名

講師: 堀江 剛さん(カフェフィロ、大阪大学)

会の進行: テキスト該当箇所のレジュメを参考にした講師による解説のあと質疑応答及び対話に進んだ。

 

1.解説

 

デカルトが精神による身体の制御を主張したのに対し、スピノザは精神が身体の運動を決定することはできないと主張した。

ゾウリムシも石も人間と同様に観念の秩序付けと連結という手続きを経て精神と身体を同時に動かしている。

「私が思う」時、「思う」という活動を「私」という身体に帰属させているとする考え方を否定し、活動の帰属先を固定させない、活動の帰属先は自然であるとする。

「自然が私という様態において思考する」という立場をとる。

 

2.質疑応答及び対話

 

Q1 スピノザの考え方だと人間には自由がないのではないか?決定論的な世界での人間の幸福はどこにあるのか?

 

因果的に決定されている自然=世界のごく一部しか人間は知ることができない。

我々は決定論的な世界にいるにもかかわらず、自然の中にいることを認識できないから不自由だという見方。

 

Q2 人間は世界のごく一部しかわからないというが、努力して進歩すれば知る範囲が広がっていくのではないか?

 

スピノザの生きた時代には「進歩」という概念はなかった。

スピノザは自分の仕事が世の中の役に立つとは考えていたが、人間の知性は神(自然)の無限な知性のごく一部しかカバーできない、進歩があろうがなかろうが、その一部から抜け出すことはできないと考えていた。

 

Q3 世の中には豊かで幸せな人もいるし、貧しく不幸な人もいるが?

 

貧富ではなく、自分が自然の一部だと受け入れられれば幸せだという考え方。

スピノザはキリスト教に対して批判的ではあるが、神を信じることで幸せになるというルートは認めている。

 

Q4 足るを知るということか?

 

その通り。つつましい幸福が推奨される。

 

Q4 体制維持派のように見えるが?

 

確かに保守的に見える。

当時のオランダはキリスト教的価値観の維持派と科学的合理主義推進派に二分されていたが、スピノザはどちらも認めていた。

スピノザは戦う哲学者というより不可解で隠遁者的なイメージが強い。

考える自由は国が保障すべきだとの考えのもと、政教分離を提唱していた。

これは当時ではかなりラディカルな国家観だった。

 

Q5 秩序を理解することが幸福への道しるべというが、秩序とは何か?

自然のあるがままの感情はよいのか悪いのか?

 

自分が生きやすい、楽しいという欲望に従うことがよいという考え。

 

Q6 人々の欲望がぶつかったときはどうなるのか?

 

その場合、共同の欲望を優先する。警察による共同体の治安維持が好例。

共同の欲望が禁止する以外は自由に自分の欲望に従うべき。

 

Q7 AIと人間は同じというが、人には欲望があるが、AIにはないのではないか?

 

AIにも欲望はある。欲望=自己保存の努力=コナトゥスはすべてのものが有している。

外部の力が加えられない限り、すべてのものに働いている力。慣性の法則にしたがう力などが想定される。

 

Q8 決定論的な世界では未来を変える力は否定されるのか?

 

未来を変えるという考え自体がおこがましい。

 

Q9 出来事の主体が自然だとすれば、例えば殺人を犯した私は罪を自然のせいにできるのか?

 

殺人犯の私は共同体が許さない。罪人として法によって罰せられる。

 

Q10 法で罰せられるから殺人はダメだということか。人の倫理としてダメという視点はないのか?

 

「人として」という視点はない。共同体の利益になるかどうかで判断される。

 

Q11 共同体が無政府状態だったらどうするのか?

 

どのような状態でもそこには必ず共同体的なものができて、制御装置が発生する。 

 

Q12 自然=神=世界の中での人のふるまいのうちにあるエートス的なものを考えてみたとき、功利主義のように見えるが?

 

確かに。スピノザは功利主義の先駆者と呼べるかもしれない。

 

Q13 精神の定義について。観念の秩序と連結の仕組みがわからない。石と人間が同じ精神を持つという意味がわからない。

 

石にも人間にも何らかの観念の活動があるはずだという見方。

人間は人間の持っている石の観念と石自体の観念の区別がつかない。

例えば、an idea of stoneという表現はどちらにも受け取れる。

人間と石とは区別できないが、自然のそれぞれの様態として区別される。

例えば、音は空気の振動でしかないが、人間の耳には不快な騒音であったり、美しい音楽であったりと聞こえ方や感じ方が違ってくる。

 

Q14 スピノザは教育とかしつけについてどういう見解を持っていたのか?

 

正しい生活は合理的に判断して互いの利益を尊重し合う関係だとし、共同体の利益を大切にした。

子供や女性に対する視線は厳しく、共同体の利益に資することはないという見方だった。

 

 

 

 

2025年11月8日 マルクス・ガブリエル『倫理資本主義の時代』読書会(第4回)

開催日時: 2025年11月8日

テキスト: 『倫理資本主義の時代』第7章~第10章

参加人数: 8名

会の進行: レジュメ担当者が事前にテキストの概要と疑問点を参加者に配布。その資料と当日配布された補助資料を元に対話が進行した。

 

1.著者の周辺情報の紹介と「子供の選挙権」に関する資料の解説

『倫理資本主義の時代』第7章~第10章の解説の後、マルクス・ガブリエルがシニアグローバルアドバイザーとして参画している京都哲学研究所の紹介があった。

京都哲学研究所は民間会社の協力のもと、AIやネットインフラの今後の在り方をデザインする目的で活動している。

 

つづいて、本日の対話のテーマとして取り上げられた「子供の選挙権」について哲学・思想史において、どのようなとらえ方をされてきたかに関しての解説があった。

 

おおむね、子供と大人を区別せずに子供の存在自体を認めるパターンAと子供と大人を区別したうえで教育的効果を補助輪として政治的関与を認めるパターンBに分類できる。

 

①JJ・ルソー(パターンB)

「子供は政治的成熟の準備段階にあり、教育を通して市民的感性を育てることが政治の根幹」

子供がすでに政治的主体であるという『倫理資本主義の時代』の発想の萌芽がルソーに見える。

 

②JS・ミル(パターンB)

「教育を受ける権利と政治参加の権利とは不可分である」

「教育を政治参加の基礎にすべき」

 

③H・アーレント(パターンA)

「子供は世界への新たな始まり(natality)」

子供を政治的に排除するのは世界への裏切りである、といった主張。

『倫理資本主義の時代』の未来世代の倫理的包摂という立場と近い。

 

④J・ハーバーマス(パターンA?)

「討議民主主義の原理に基づき、将来世代・未成年者も討議の潜在的な当事者として含まれるべき」

『倫理資本主義の時代』の議論は討議的包摂の原理を倫理的に拡張したものと読める。

 

⑤PJ・パリース

ベルギーの政治哲学者。子供の票は親が代理で投じる代理投票制を推奨。子供の数に応じて票が増えることで、未来世代の利益が政治に反映される。

『倫理資本主義の時代』の主張はこれとほぼ同型。

 

⑥Philosophy for children(P4C)

発達心理学的アプローチ。

子供に寄り添い、子供の表現を多言語として尊重する。

大人は子供の翻訳者、記録者として子供の発話を見守る。

 

これらの資料の紹介を踏まえて「子供の選挙権」についての対話が進行した。

 

2.対話の展開

 

ⅰ)大人と子供の違い

・紹介された哲学者たちは「大人と子供は違う」という認識が強かったのか?

・アーレントのnatalityは理性の産物ではなく存在そのものを言っているので、区別をつけていない。

・大人が上の立場だという前提の理性を脱構築しようとしたガタリらも同じ立場。

・他はおおむね大人と子供を区別して扱っているのではないか。

・実際に子供と政治の話をするのは難しい。主語があいまいで文脈をとらえられない。

・大人と子供の線引きは難しい。個々の知的能力によって差がある。

・「大人(親)が子供の代理をする」という考えには子供は自律的な判断ができない、十分に理性的ではないという前提がある。ここは崩せるのか?

・大人と子供お互いが尊重しあうことはできないのか。

・すべての人間は政治的に平等という民主主義の原理と子供は発達段階にある未成熟な状態だという発達心理学の示唆する現実、この両者に折り合いはつくのか。

 

ⅱ)AIの可能性について

・子供の内的な対話を支援する役割をAIが担えるのではないか。

・子供の考える過程をともに歩む「透明な支援」としてのAI。

・思考プロセスを記録して子供が見えるようにするような?

・AIは公共圏としての対話空間の一部になりえるのか?

・成熟がまず設定されていて、そこに連れていくような枠組み、発達論的、線形的なモデルは未熟さそのものに寄り添う支援ではない。

・子供の思考を未熟ではなく根源的なものとしてとらえ、子供独自の問いを持続させることは可能か。

・子供独自の問いとは何か?

・寄生的、混沌的、創発的、、、そのような状態、生成と変化の中で人はそのようなあいまいな状態を維持・継続できるのか。

・ドゥルーズ/ガタリの生成・変化の思想。「常に生成し続ける存在として潜勢力を持つ」ような状態?

 

ⅲ)実際にAIが使われるとしたら

・実際にはAIはどう使われているのか?

・AIに子供の感想文を書かせるようなこともできる

・AIは個人的な情報をもとに先読みしてくるので、使っていると怖い時がある

・AIは世の中に流通している情報でしかないので、選択幅は限定されるのではないか

・現時点でAIは不完全。間違った回答を提示する場合もある

・国家など外部がAIをコントロールする危険性もある

・男性は正しいか正しくないかゼロか1かの正義の倫理学、女性は文脈やストーリーを重視するケアの倫理学に基づく情報選択の傾向性がある

・論理的に話の出来ない子供を論理的に結論づけるように導くには、わかりやすく説明、質問する必要がある

・わかりやすい説明をAIが補助することに危険性はないか

・AIが扱う個人情報が豊富になれば、より個々人にあったオーダーメイドなアドバイスができるのではないか

・AIは経験を補えない。子供にとって経験は発達段階で非常に重要な要素ではないか

 

ⅳ)子供の選挙権のメリット、実現可能性

・人生経験の少ない子供に期待できることは少ないかもしれないが、大人ができない分野もあるのではないか

・テーマを限定して発言権を子供に付与する方向はあり得る

・子供に任せる部分と規制する部分を分けて考えてはどうか

・AIに頼ることによってエリート支配が加速されるのではないか

 

ⅴ)『倫理資本主義の時代』

・最高哲学責任者(CPO)は現実にできたとしても形骸化するだろうが、存在するだけで意義がある

・全体的な印象としてマルクス・ガブリエルはエリート意識が強すぎて、現実的な感覚が薄いように感じる

 

以上、とりとめのない対話のように見えるが、子供と大人の違いは何か、子供の選挙権が現実化するための障害をAIが解消できるのか、AIに危険性はないのか、と話題の展開は割合スムーズに進行したように感じた。

 

最後に「子供の選挙権」についての賛否を参加者に問うたところ、賛成4VS反対4できれいに分かれた。

 

本日で『倫理資本主義の時代』の読書会は終了になります。

参加された皆様方、お疲れさまでした。

 

次回は上野千鶴子『アンチ・アンチエイジングの思想ーボーヴォワールの『老い』を読む』みすず書房、の読書会を予定しております。